古いものへのこだわり Vol 1

by Gray Cook

 

 

Gray・FMSは、ケトルベル、ターキッシュゲットアップ、インディアンクラブなど、オールドスクールな運動指導法に新しい価値をに生み出し、情報発信することで知られていますが、その理由について、Grayが解説しています。

 FMSをフォローしてくれている人は、私の傾向として、昔ながらの・オールドスクールの教え、トレーニングの知恵の方向に向いていることに気がついているかもしれない。様々な方法で、機能的で体系的で、現代的、進歩的なひねりを加えたオールドスクールのトレーニングを紹介してきた。これは、動作スクリーンとコレクティブエクササイズのアプローチが明らかにする運動学習と発育発達に関する現在的な理解と、オールドスクールのトレーニング方法の知恵を合致させるための試みだった。

  

 これらは、運動やリハビリテーションの専門家にはこれらの私の情報についてすこし困惑したかもしれない。私は、”Functional Movement Screenに照らし、動作がいかに悪いのか、そしてこれを修正する必要があるはずだ”と言っていたところから、いきなり”オールドスクールの(エクササイズ)プログラムを見てみよう”と言いだした。私の飛躍についていけなかった人もいるだろうから、ここで説明していこう。

 

 Functional Movement Systemsの大前提は、動作パターンが最も生産的なプログラミングの選択を促進するということだ。Functional Movement Screenで作り出された動作のプロファイルは、各クライアント、患者、アスリートのトレーニング ルールの基本的な枠組みを提供する。各個人に対して、潜在的に3つの方向性を得ることができる。

 

1.    このパターンをトレーニングしてはいけない - なぜなら動作の間違いを複雑化するからである。

2.    このパターンをトレーニングする - なぜなら適切な動作コンピテンシーを強化するからである。

3.    このパターンを修正するか修正する - このパターンは鎖の中で最弱のリンクであり、管理されなければ、傷害のリスクを高め、トレーニング効果を低下させる可能性があるからである。

 

 この方向性は、体の部位や筋肉群ではなく、複数の動作パターンに分解される。なぜなら、(体の部位や筋肉群は)中枢神経が働く方法ではないからだ。中枢神経はパターンに基づいて機能する。

 

 オールドスクールのトレーニング論は、身体のパーツではなく、動作のパターンに焦点を当てていた。ボディ パート トレーニング(身体部位別のトレーニング)は身体の彫刻(body sculping)のための近代の発明であり、包括的な身体能力、全身のフィットネス、持続可能な適応力を鍛えるのには最適な方法ではない。ボディパート トレーニングは、素晴らしい“表面的な”結果を迅速にもたらすが、身体発達ツールとしては不完全なものだ。

 

 我々がケトルベルやインディアンクラブへの探求を始めたとき、ボディ パーツやセット数やレップ数よりも、動作パターンやテクニカル・技術的な正しさの方が重要であることに気づいた。多くのオールドスクールのトレーニング方法が、ワークアウトをカスタマイズせずとも、FMSで評価をした時に、優れた動作(≒点数)を作り出していることに、とても驚いた。

 重要なことは、これらが体系的・システマティックな指導モデルであるということだ

 

 これらの試みはBrett Jonesと私が主に行ってきた。インディアン クラブに関するプロジェクトについては、Dr. Ed Thomasも参画している。ケトルベルに関するプロジェクトには、 Dr. Mark Chengの専門知識を活用し、Jeff O'Connorに協力を依頼してきた。我々の共同作業では、かなり”オールド スクール”なエクササイズを実演し、これらのビデオは、オールドスクールの趣と雰囲気を出すために、Averett University の古い体育館で撮影した。

  

 Dr. Ed ThomasはAverett Universityにて、彼の身体文化の歴史的な概観と視点を共有してくれた。彼は、オリンピックのリング、フリーウェイトバー、ケトルベル、インディアンクラブ、大きなメディスンボール、縄跳びなどがあるジムが、決して新しいものではないことを教えてくれた。むしろ、これらは非常に古いものだった。これらの機能的な運動のあり方におけるアプローチの違いについての議論において、Dr. Ed Thomasは、正確さ(Precision)プログレッション(Progression)そして多様性(Variety)という3つのステップのプログラムに従う。しかし、彼の指導はそれだけに止まらない。

 

Ed Thomas Ed.D.の言葉

 “1800年代後半から1920年頃まで、ヨーロッパから輸入された機能的な身体トレーニング システムがアメリカの身体文化を支配していた。これらの初期のシステムでは、ワークアウトすることが目的ではなかった。ギムナジウム(Gymnasium)は、その代わりに、インストラクターが理論を教え、徐々に難しくなる運動スキルの実践的な応用について教える学校だった。多くの場合、健康増進、軍事的、教育的なコンテンツに分類され、これらの高度に進化したシステムは、合理的なプログレッション、多様性、正確性を重視していた。家への奉仕を含む崇高な目標が、最適な身体構造、機能、運動を開発するために必要な膨大な集中力、エネルギー、時間をもたらした。現在、機能的なフィジカルトレーニングとして出現しているものの多くは、これらに初期のルーツをたどることができる。

 また将来の文化的な要求を満たすために現在を再形成する中で、歴史の重要性を理解し始めたとしたら、過去からさらに多くのことを採掘することができる。”

 

 多くの運動専門家が、トレーニングや指導、真の学習の機会を、ほとんど、あるいはまったく与えることなく、ワークアウトの機会として提供しているのは、この時代の表れである。運動時間がカロリー消費に還元され、車輪の上のネズミと同じような精神的と身体的体験になっているのを見るとがっかりする。

 

 現代のトレーナーは、時に師匠・マスターというよりも下僕のように機能している。ダンスインストラクターや格闘技の専門家、サッカーのヘッドコーチに払われる敬意を考えてみよう。これらの専門家もサービスを提供しているが、専門知識と権威を持ってサービスを提供している。彼らはチップを受け取らないし、気まぐれや流行、トレンドに基づいてトレーニングを変えることもない。YouTubeでクールなものを見たからといってプログラミングを変えることもなく、ギミックに振り回されることもない。しかし、彼らはまた革新することを恐れず、既成概念にとらわれない発想をするために研究者の許可を必要としない。結局のところ、最も優れた教師、指導者、コーチは、生徒、クライアント、アスリートに知的な自立心を生み出そうと努力しているのである。

 

 

 運動・エクササイズにおける自立(性)は諸刃の剣である。運動の専門家が運動コンピテンシーのレベルを作り出すことは倫理的にも責任があるが、運動コンピテンシーの欠如は雇用の機会を生み出す。

最高の教師と生徒の関係は、ダンスや武道に見られることを銘記しよう。教師は常に独立性とコンピテンシーを後押しし、学習と技術的なコンピテンシーに焦点を当てる。適度な肉的的疲労・労力は、一般的には学習の結果であるが、これは目標ではない。それは単に身体的な利点でしかない。カロリーや身体の部位がセッションをコントロールすることはない。学習がゴールであり、ワークアウトは恩恵である。コーチング、武道、ダンスの真のマスターは、トレーニング中のエンターテイメント性にこだわることはない。彼らは、指導、コンピテンシー、より高いレベルの独立性に焦点を当て、また、プラスの副作用として、優れた身体的な標本を生成する。

 

Dr. Thomasは、我々が役割を受け入れるかどうかにかかわらず、我々はみな教師であることを思い出させる。良いニュースは、何を教え、どのように教えるかを決めることができるということだ。身体文化における歴史的な指導は、3つのファンダメンタルなカテゴリーに従ってきた。

まずは基本的なことから始めよう。

 

 (Part 2 へと続く)